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やっと出た「人類資金7」だが... [本]

限定版 人類資金7 (講談社文庫)
福井晴敏著「限定版 人類資金7」(講談社文庫)

何となく第1巻を読んでしまったのが運の尽き。途中でもう嫌になりかけてたのだけど,ストーリー展開はともかく,どういう決着になるのかは一応確認しておきたい。それだけのために,モタモタした展開に我慢し続け,第6巻の後,いつ出るかも分からない最終巻を,1年以上も待ち続けていたのである。その最終巻たるや,なんと約700ページ。1~6が200ページそこそこだったのに,何なんだ。だったら,それまで通り200ページくらいずつ小出しにすればいいじゃないか。どうも釈然としない。

6巻までのストーリーなんてほとんど忘れてしまっていたが,著者(出版社)の方も予想していたのだろう。冒頭15ページにもわたって,これまでのあらすじが書かれている。お陰でだいぶ思い出したが,よくよく考えてみると,この程度のストーリーで6巻も使ったというのは驚異的と言える。

そして,最終巻も予想通りというか,相も変わらずくどくどした叙述の,トロい展開。この程度の話に,なんでこんなに枚数を費やすの? 水増しして,1巻の単価を吊り上げようって魂胆か? 更には,大して格調高い文体でもないのに,取って付けたように難しげな単語を使いたがるのに呆れてしまう。無理してそんな言葉を使うのは,表現力が不足しているからなのだろうという印象。使い慣れていないせいか,用法がおかしいところもちらほら。文章の手本にはなりませんな。

そして結末。こんなに話を拡げて,どうやって決着付けるのか興味津々だったのだが,案の定腰砕け。そんな写真で,退出しようとする人達の足を止められるか? そんなスピーチで,世界中の人々の心を動かせると? 世界を大きく変えられると? それならもう誰か本当にやってるよ。無理がありすぎる。全くリアリティがない。読んでて,なるほどそう来たか! という感動が全くない。寧ろ白けてしまった。大衆娯楽小説としてもいただけない。正直,読むに値しない。1年以上も時間をかけて出て来たのがこれ,ということはアイデアが枯渇してしまったのだろう。というか,こんな大事なことを,構想段階で決めておかなかったのだろうか。理解不能だ。

実のところ,第1巻の頃は,悪くないと思っていた。特に,成長し続けることを義務付けられた資本主義の矛盾と限界については,共感するものがあったのだ。だからこそ,この読みにくい文章を2巻以降も続けて読んできたのである。最終巻だって,700ページもの本を読む訳だから,期待がなかった訳ではない。しかし,あっさり裏切られた。この徒労感。申し訳ないが,最低評価をつけるよりほかない。


おジャ魔女どれみの美空市は平塚市?! [本]

おジャ魔女どれみ18 (講談社ラノベ文庫)
「おジャ魔女どれみ18」(講談社ラノベ文庫)

だいぶ前に購入していた「おジャ魔女どれみ18」を読んでいたら,馴染みのある地名がたくさん出て来て,ちょっとびっくり。「長津田」とか「江ノ島」とか。アニメの時はそういうことはなくて,どれみちゃんの住んでる「美空市」は,完全に架空のものだと思っていた。しかし,ラノベ版を読んでいると,どうも神奈川県の市のようだ。この設定が,アニメの頃から決まっていたのか,そもそもどこかの市をモデルにして作られていたのかは分からないが。

そして,更に場所を特定する手懸かりが。まず,長津田から横浜線で横浜に行き,そこで「美空行」に乗り換えて帰ると言うこと。次に,美空から湘南新宿ラインに乗って池袋へ行き,池袋から西武池袋線で小手指まで,約1時間50分かかると言うこと。本文中では,湘南新宿ラインの「急行」に乗ったと書かれているが,急行というのはないみないなので,快速あたりのことだろう。で,土曜日の11時過ぎに出発して,13時過ぎに小手指に着くという。これってもしや平塚のこと? 乗換案内で調べてみると,(あくまでも現在のダイヤだが)11時19分に平塚を出る,湘南新宿ライン特別快速 高崎行がある。小手指に着くのは13時9分。所要時間かっきり1時間50分。きっと,著者の栗山緑さん(かスタッフか分からないが)も,似たようなことをして調べたはず。まさにこれなのでは? 平塚なら,東海道線に平塚行というのも少なからずある。美空市ではサッカーが盛んらしいが,ベルマーレのある平塚ならしっくり来るし,どれみちゃんの高校からJリーグへ行く子がいるというのも,まぁありそうな話だ。平塚なら海に面しているし,アニメの時のイメージにもぴったりだ。

ただちょっと引っ掛かったのは,長津田から平塚へ帰るのに,横浜を経由していたこと。地理的にはどう見ても遠回りだ。平塚なら,中央林間から小田急江ノ島線で藤沢に出て,そこで東海道線に乗り換えた方が速そうである。しかし,やはり乗換案内で調べてみると,実は大して所要時間に違いはなく,時間によっては横浜回りの方が速いことが分かった。乗り換えが1回で済むということもあるのだろう。少なくともラノベ版では,美空市は平塚市をモデルに考えられているということで良さそうだ。

ところで,早稲田大学とか等々力競技場とか,実在の施設が実名で登場している一方で,「鶴川」の「チャイルドランド」という施設が,駅伝大会の会場として登場する。これはちょっと調べた限りでは存在していないっぽい。「鶴川」という小田急線の駅はあるが,鶴川に行くのに長津田で乗り換えというのはおかしい。これは,「チャイルドランド」なんて名前からして,恐らく「こどもの国」のことなのだろう。こどもの国へは,長津田から東急こどもの国線に乗り換えて行く訳だし,こどもの国では,実際に周回コースを利用した駅伝大会が開かれている。ただ,こどもの国なら横浜市青葉区なので,なぜ敢えて鶴川にしたのか不思議。

まぁこんな具合で,身近な地域が舞台になっていると,また別の意味で楽しい。近隣の風景が浮かんでくるようだ。話の内容も高校生の女の子の進路の悩みが中心になっているし,実在の地名が出て来ることで,アニメからよりリアルなドラマっぽくなってきた気がする。制作側もそれを狙っているのかも知れないけどね。


「イニシエーション・ラブ」 [本]

イニシエーション・ラブ (文春文庫)
乾くるみ 著「イニシエーション・ラブ」文春文庫

「イニシエーション・ラブ」という小説を読んでみた。

この本が,巷で話題になっていたのは,何となく知っていた。電子書籍の売上げランキング上位に入っていたし,ニュースの見出しでも何度か見た気がする。しかし,話題性があることが必ずしも良い本ということには結びつかないことも知っているので,特に興味を持ってはいなかった。それがある時,電子書籍が割引セールでだいぶ安くなっており,しかも予想外なことにミステリーに分類されていた。これってミステリーだったのか。それなら多少質が悪くても読めるかも,と思って買ってみたのである。話題の書籍なら,話のタネに読んでおいても悪くはない。

そんな訳で,事前に何のレビューも見ずに読み始めた。内容は,大学時代から社会人になる頃の,良くある若い男女の恋愛ストーリー。全くありきたりの展開で,山らしい山もなくどんどん残り少なくなってくる。一体いつ事件が起こるのだ? これのどこがミステリー? 徐々に不安が大きくなりつつ,更に読み進めていくと,なんとそのままあっさり終わってしまった! なんだこの本は? こんな本のどこがどうして話題になったのだ?

釈然としなかったので,Webで調べてみた。すると「最後から2行目」で大どんでん返し,などと書いてある。最後から2行目って,あれか。確かに変だとは思ったけどね。それが何だって? 私は,ミステリーは読むけど,自ら謎解きをする気はない人なので,さらなるネタバレ情報を探す。なるほどね。そういうことなのね。ふーん。

いや,別にここにネタバレを書かないようにするために,伏せて書いた訳ではない。本当にそれだけの感想しか湧かなかったのだ。その大どんでん返しを知ったら,絶対もう一度読みたくなる,という触れ込みなのだが,全然そんな気分にならない。確かに良く計算された叙述トリックと言えるだろう。しかし,これはもう叙述トリックのためだけに作られた小説だ。これが小説として評価されるとは,どうにも釈然としない。そもそもストーリーが陳腐すぎる。何も心に訴えかけるものがない。元々感動がないところを,いくらどんでん返ししてもたかが知れている。無理してもう一度読んだとしても,ここは実はこういうことだったのか,と納得する程度のことにしかならないだろう。それが先程の「ふーん」なのだ。真実が見えても,底の浅いストーリーには変わりがない。

なんというか,タネが分かってしまった手品のようなものだ。よくそんなこと思い付くなとか,よくタネがバレないように演じられるなとか,感心はするが,タネが分かってしまった手品にもはや感動はしない。この本をもう一度読むというのは,それと同じことではないだろうか。いや,タネを知らずに読んだ最初にも感動がないのだから,手品と比較するのは失礼かも知れない。


怖いものがちょっと苦手な人にもオススメ~「営繕かるかや怪異譚」 [本]

営繕かるかや怪異譚
小野不由美著「営繕かるかや怪異譚」。オススメである。

昨年,出版と同時に購入してあった,「営繕かるかや怪異譚」を読んだ。言わずと知れた,「十二国記」シリーズの作者,小野不由美さんの最新作である。ファンは彼女を,「先生」ではなく「主上」と呼ぶ...らしい。

この寒い冬の夜に,何を好きこのんで怪談話を読むのか,と言われると,反論の言葉もない。強いて言えば,この時期に出版する出版社が悪いのである。さらに言えば,私は基本的に怖い話は苦手なのだ。夏だからといって,読みたいものでもない。「リング」シリーズと,小野不由美さんの作品でなければ,怪談やホラーは,まず確実に読むはずはない。まぁ,「リング」シリーズは,もはやSFになってしまっているが。

本作は,日本の古い家(建物)にまつわる怪奇現象をテーマとした短篇集だ。前の長編の「残穢」と比べると,比較的ライトな感じ。「残穢」は怖かったからなぁ。買ってから一月も放ってあったのは,その影響(トラウマ?)も大きい。そういう意味では,怖い話が苦手な人でも充分楽しめる作品といえるだろう。そうは言っても,ところどころで軽くゾワッと鳥肌が立ってしまうのだが。

それにしても,改めて思うに,小野さんの文章は,こういう古い家や田舎の町並みの描写にぴたりとハマる。これを今風の作家の文体で書かれても,生々しいほどの情景が目に浮かぶことはないだろう。そして,何気ない会話を含めた,人の気持ちの描写が極めて細やかで,物語に自然に引きこまれてしまうのである。だから余計に怖く感じるのかもしれない。

それぞれのエピソードで,問題の解決に当たるのは,「営繕かるかや」の尾端という人物。この人は,「ゴーストハント」のナルちゃんや,その他よくあるホラーの主人公のように,悪霊を退治するための特殊能力を持つスーパーマンではない。ただ現象を適切に読み取って,無理なく自然に流すようにして,現象を鎮めるのである。悪しきものを退治して,消し去って,めでたしめでたし,というような安易な怪談ものに比べて,「大人の怪談」というのがぴったりだと感じた。純粋に物語として,味わい深い。よっぽど怖いものには弱い人でなければ,多くの人にオススメしたい作品である。

全6篇の中で,個人的には,特に「雨の鈴」が気に入った。ちょっとミステリー・タッチなせいかも知れない。小路の形状を把握するのに,何度も読み返してしまった。小野さんの旦那さんの綾辻行人さんの作品のように,小路の平面図があれば良かったのだが^^;

なお,「営繕かるかや怪異譚」は,現在も雑誌「幽」で連載が継続中とのこと。季刊のようなので,1冊分たまるには時間がかかるだろうが,続刊が期待できそうなので楽しみだ。


「司法記者」の憂鬱 [本]

司法記者 (講談社文庫)
由良秀之著「司法記者」

結局,先に読んでしまった。由良秀之著「司法記者」。先日までWOWOWで放送していたドラマ,「トクソウ」の原作本である。

著者の由良氏は,小沢一郎の陸山会事件で話題になった,郷原信郎氏のペンネームである。はっきり言って,ストーリー構成も小説としての文章力も稚拙で,イラッとすることもあったが,小説家が本業でないので仕方ないだろう。そもそも,この作品の価値はそんなところにあるのではない。元東京地検特捜部に所属していたこともある著者が,特捜部の実態を赤裸々に描いたところが重要なのだ。勿論,元特捜検事だからといって,小説である以上,全てが事実である保証はない。しかし,本職ではない著者が,敢えて小説という形態で作品を発表するということは,常日頃の主張を,一般読者に分かりやすく伝えたいという意図があると考えて間違いない。そういう意味で,この本を手に取る人には,単なるフィクションではないことを念頭において読んで頂きたいものである。

とは言え,私にとっては,本書の内容は特に驚きを感じるものではなかった。検察のような上命下服が徹底された組織では,上が腐れば全体が腐るのは当然のことだ。そして,1回腐ってしまった組織に,自浄作用は働かない。つまり構造的な問題を孕んでいるのである。これは裁判所や警察,防衛省でも同じだ。そして,本来はそうした組織のあり方を監視する立場にあるはずのマスコミは,情報をもらうために癒着してしまっているから,全く機能しない。司法記者クラブとか,馬鹿げた話である。こんな連中が,エリート意識を持っているのだとしたら,自己満足も甚だしい。

自浄作用が働かないのだから,市民が圧力をかけるほかない。しかし,市民はこういう問題に極めて無関心である。慎ましく暮らしている,善良な一般市民には関係ないことと思い込んでいるからだ。これぞ衆愚の極みである。

結局のところ,現状の組織の中で上手く立ち回り,晴れてトップに立ったら,偽りの仮面を脱ぎ捨て,一大改革を敢行する...みたいなスーパー・ヒーローでも登場しないと,日本は変わることが出来ないのだろうか。それまた,望み薄そうな話である。


Kobo割引クーポンのからくり [本]

楽天Koboで,「最大全額クーポン還元」というキャンペーンが始まった。例えば,1000円の電子書籍購入で,1000円分クーポンがもらえるというものだ。

何だかすごくお得な感じがするが,冷静に考えないといけない。千円で千円クーポンをもらえると言っても,100% OFFという訳ではない。クーポンは使ってはじめて意味がある。千円分の買い物をタダで出来る権利だからだ。この場合,最初の電子書籍と合わせて,2千円分を千円で購入できることになる。つまり,実質50% OFFに相当する。

最近はKoboのクーポンの割引率が定常的に下がっているので,50% OFFでも充分お得だと思うかもしれない。しかし,これにはまだワナがある。このキャンペーンで貰えるクーポンは200円x5回分なのだ。Koboでは,購入時に1つのクーポンしか使うことが出来ない。そのため,1冊当たり200円引きを5回使えるということなのだ。1冊200円ぴったりならタダで買えるが,そんな本はそうそうない。結局幾ばくかの金額を追加しなければならないのだ。更に,割引額が固定なので,2千円の本を買うとすると,10% OFFのクーポンと同じ効果しかない。10% OFFのクーポンなら,まだ結構出るので有難味がない。ここでは仮に,50% OFFに相当する,すべて400円の本に5枚のクーポンを使うとしよう。この場合,2千円分の本を千円の追加で購入できることになる。さて,トータルではどうなったか。最初の千円を合わせると,3千円分の本を2千円で購入できたことになる。これは約33% OFF相当だ。

最近も,30% OFFクーポンが何度か出ていたので,33% OFFだとあまりお得感がないのが分かるだろう。しかも,最初の購入が千円きっかりでないと,更に効率が悪くなる。もっというと,クーポンを使い切るためには,欲しい本を5冊,400円前後の価格帯に見つけなければいけない。

私もちょうど3千円分欲しい本があったので,一瞬このキャンペーンに乗ろうかと思ったのだが,上記の計算の結果,見送ることにした。ショップ側は,実質よりもお得に見えるようなキャンペーンで,売上げ向上を図ろうと,あの手この手を繰り出しているのだろうが,どうも不誠実で姑息なやり方に見える。こんなことを続けてると,顧客からの信頼を失うだけだと思うのだが...。


「演劇入門」 [本]

演劇入門 (講談社現代新書)
平田オリザ著「演劇入門」(講談社現代新書)

平田オリザ著「演劇入門」を読んだ。

実は先日,友人の出演する舞台を観劇したのである。30数年前に,劇団四季の「アプローズ」を観たくらいしか,観劇の経験はない。興味がなかった訳ではないが,演劇は何かディープな感じがして近寄りがたいというか,素人がカジュアルに観るようなものではないと思っていた。一方で,映画やドラマの中で時折登場する,小さな劇場で催される演劇は,そのアングラ的な感じが魅力でもあった。自分に理解出来るのかどうか分からないけれども,観てみたい気がする。でも,そもそも何を観たらよいのかも分からない。そんな訳で,友人が出演する舞台というのは,私にとってこれ以上ない切っ掛けだったのである。

しかし,実際に舞台を観た後でその友人に会った時,感想を表す言葉が出て来なかった。それは勿論,何も感じなかったからではない。何か,様々な複雑な感情が入り交じったようなものが,湧き上がるというか,押し寄せるというか,そういう感覚は確かにあるのだが,それを言葉にすることが出来ない。それは私の語彙の貧困さによるものもあるだろう。とにかく,言葉が出て来ないので,ただ「凄かった」としか言えなかった。

そんなことがあって,そもそも演劇とは,どう観るのが正しいのだろう,という疑問に突き当たったのである。同じような話だが,最近,久し振りに「純文学」に分類される小説を読んで,途方に暮れたことがあった。この小説は,一体何のために書かれたのだろう。小説とはそもそも何なんだろう。例えば芥川賞に選ばれる作品は,どこをどう評価されているのだろう。小説とはどう読むべきなんだろう。この歳に至って,かなり基本的なところに立ち戻った疑問に悩んでいたのである。

そんな折りに,たまたま手にしたのが「演劇入門」である。演劇には無縁だったので,平田オリザ氏がどういう人物かも知らないが,どこかで名前を見た記憶があるので,有名な人なんだろう。といった程度の認識であった。が,タイトルの「入門」というところに惹かれた。ただしこの本は,演劇を観るための入門書ではない。全く逆の立場である,演劇を作る,つまり,戯曲を書くための入門書である。とは言え,作品を理解するということは,作者の意図を理解することであり,演劇がどうやって作られるのかを知ることは,重要なヒントとなるはずだ。

読み終えて,疑問が氷解した訳ではない。まだ咀嚼し切れていないというか,腹に落ちていない部分はある。が,なかなか興味深いことがたくさん書かれていた。まず,演劇を書くに当たって,テーマを先に考えてはいけない,ということ。これが,未だに消化し切れていない最大のポイントである。テーマというのは,作者の伝えたいことではないのだろうか。テーマがないのなら,作者はなぜ演劇を書くのだろう。ただ,平田氏はテーマが不要と言っている訳ではないと言う。では,先にテーマがなくて,何が演劇を書くモティベーションなのだろう。これに関して,平田氏曰く,「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」そうだ。表現したいことと,伝えたいことは別なのだろうか。ますます難解である。

私のような素人には,演劇とドラマや映画との根本的な違いもちゃんと認識できていなかった。言われてみればその通りなのだが,演劇は役者の台詞だけで成り立っている。ドラマや映画のような,説明的なナレーションは基本的にない。だから,台詞だけで必要な情報を観客に伝えなければならない。不自然な台詞で,無理矢理伝えようとすると,違和感を催させる。それはよく理解出来る。そしてさらに,映像であるドラマや映画と違って,舞台の切り替えが頻繁には出来ない。固定した舞台設定の中の会話や動きだけで,表現しなければいけないのである。そこで,会話とはどういうものなのかという分析が重要になる。

例えば,家族や友人などの間で,お互いによく知っていることについて話す時,人は共通に知っていることを言葉にはしないという。確かにそうだろう。だから,当人達の間で当たり前のはずのことを,台詞で喋られると,不自然な感じがするのである。こんな分析のことは知らなくても,人は感覚的にそれが分かっているということだ。したがって,家族や友人の間の会話では,観客に情報を伝えることが出来ないのである。そこで,共通知識を持たない外部の人間を登場させ,「対話」をさせることで,自然に観客に情報を伝えるのだそうだ。この,「会話」と「対話」の違いについても,日本固有の歴史的な状況と絡めて説明されていて,とても興味深い。

結局,演劇とは何なのか。それを理解するヒントになりそうなのは,平田氏の言葉で言う「コンテキストの擦り合わせ」だ。演劇は作者が書く訳だが,演じるのは役者である。同じ言葉であっても,使う人間によって,認識や解釈が異なる。その違いを生むのが「コンテキスト」だ。コンテキストが違うと,同じ言葉を発しても,違った感じになってしまうそうだ。作者や演出家が伝えたい言葉は,作者や演出家のコンテキストのものなので,役者にそれを理解して演じてもらわなければならない。ただし,一方的に作者側に引き寄せるのは簡単ではないし軋轢も生じるので,役者自身のコンテキストも考慮して,上手く折り合いを付けていく必要がある。これを「コンテキストの擦り合わせ」と言っている。さらに,舞台で発せられた言葉は,観客に意図した通りに伝わって欲しい。ここで,観客との間の「コンテキストの擦り合わせ」が行われる。観客と舞台の間には,双方向のコミュニケーションはないので,擦り合わせはそう簡単ではない。いずれにしても,演劇の作者は,自分と観客のコンテキストとの擦り合わせを意図して,戯曲を書く。つまり,演劇とは,作者の感じたことを,観客にも出来るだけ同じように感じてもらいたいために作られる,という事なのだろうか。

感じたことを伝える手段なら,文章で表現してもよい訳だ。しかし,敢えて演劇という手段を取ると言うことは,文章では表現しきれない,という事なのかも知れない。作者が言葉で表現しきれないものを,受け取った側が簡単に言葉に出来るはずはないのかも知れない。だとすれば,今回の観劇で感じたことを,私が言葉で表せなかったことは,あながち能力不足というだけではなかったのかも知れない。

今後も友人の舞台を観る機会はあるだろう。この本を読んだことで,演劇の理解が深まったかどうかは分からないが,見方は少し変わるような気がする。それが正しい見方なのかも確信はないが,何かを読み取ろうと構えるよりは,素直に感じるというところから始めるのが良さそうな気がしてきた。そうして回を重ねる内,少しずつ分かってくるものなのかも知れない。


検察崩壊 [本]

検察崩壊 失われた正義
「検察崩壊 失われた正義」郷原信郎著。私が読んだのはKindle版。

「検察崩壊 失われた正義」という本を読んだ。

世間を騒がせた,小沢一郎の陸山会事件に纏わる,検察の恐るべき隠蔽体質を告発する本である。ハッキリ言って,私は,小沢一郎という政治家を信用していない。証拠があるわけではないが,裏で何か悪いことをしているに違いないと思ってさえいる。しかし,それとこれとはまったく別の話だ。この事件で,検察が小沢一郎を起訴しようとしていたことは知っていたが,正直なところ,こんな事になっていたとは全く知らなかった。日頃から,司法や検察・警察批判をしている身として,その無関心を恥じるばかりである。

しかし,なんと恐るべきことが行われていたのだろうか。まず驚いたのは,「供述調書」と「捜査報告書」の違いだ。「供述調書」は,取り調べ対象者の供述を元に書き起こされ,最後に供述者が内容の正しいことを確認して,署名をする。一方で,「捜査報告書」とは,捜査員が上司への報告のために書くものであり,取り調べ対象者による確認も署名も必要としない。つまり,捜査員がどんなに勝手なことを書いても,分からないということだ。取り調べ対象者が実際に口にしていないことだって書ける。しかし,果たして素人で,その違いを理解しているものがいるだろうか。それだけを見せられたら,それが捜査員のまったくの創作であっても,一般市民には,供述者の供述と受け取られる可能性は極めて高い。更に,この一連の事件の中で,最高検は,実際に口に出して言ったことでなくても,供述者の様子や態度から,捜査員が推定できることを,「供述として」補って書いてよいと,報告書中で述べたそうだ。言ってもいないことを,勝手な憶測で,言ったことにしてよい,とお墨付きを与えたのである。こんな理不尽で不公正なことが許されるのだろうか。

そして,検察が「組織を守るために」,詭弁を弄してでも,虚偽報告における担当検察官の故意を認めないこと。この事件では,虚偽とされる捜査報告書と,実際の聴取の録音資料などがネットに流出しており,もはや誰の目にも虚偽が明らかであるのにもかかわらず,「記憶の混同」などという,幼稚な理由で言い逃れを計ったのである。

そもそも,「組織を守る」とはどういうことだろうか。本気で検察の威信を守るのであれば,不正は不正として,厳正に処理するのが最善に決まっている。それをしないということは,つまり,それをされると困る人を守っているに他ならない。いや,責任を取るべき人間の自己防衛行動に過ぎないのだ。下の人間は,指示に従いそういう連中を守るために動く。下手に逆らおうものなら,後で生き残った権力者に報復されるからだ。これもまた,下の人間の自己防衛である。結局,「組織を守る」は建前で,組織の人間それぞれの保身が結集したものなのだ。

更に驚くべきは,本来,検察の正当性を審査すべき検察審査会が,検察の都合の良いように利用されているという事実。検察に関わりの深い審査補助員(弁護士)選任の不透明性と,審査誘導の疑い。今や検察審査会すら信用のおけないシステムになっていたということなのだ。日本のこういう機関はいつもそうだ。裁判員制度でも裁判官による誘導(指導?)があるし,官僚のいうなりの「有識者会議」も同じだ。

こうした状況に対して,マスコミが機能しないのは嘆かわしいことだ。いや,マスコミが無用の長物だということはとっくに分かっているが,それにしても酷い。国民の理解が得られるように,徹底的な捜査をするよう,検察総長に対して指揮権を発動しようとしていた小川元大臣に対する,批判まで展開していたのだから。マスコミは一体何をしたいのか。何のために存在すると思っているのか。

そもそも,これだけインターネットが普及した現在,情報を発信するためだけなら,マスコミなど必要なくなっている。検察や警察を含む官公庁は,マスコミ相手に「だけ」記者会見をして発表するのではなく,HPで情報を国民すべてに公開すればよいのである。何故それを拒むのか。拒む権利があるのか。マスコミに資料は渡せるが,一般人には渡せないなどというのは,国民の税金で運営されている組織として,言語道断の考え方だ。情報をエサに,マスコミをコントロールしようという意図が見え見えだが,そんなことが許されるはずはないし,それではマスコミは機能しない。エサをくれる相手を告発できる訳がない。監視機能を失った,官公庁の思惑通りにしか発言できないマスコミは,無駄以上に,有害と言える。このままでは,いずれマスコミも「崩壊」していくだろう。

この本の中でも書かれているように,日本では,検察が起訴した内の99.7%が有罪になる。信じ難い高率だ。裁判所が検察を信頼している,と書かれているが,それはウソである。勿論言っている本人も分かっているはずだ。検察は,面子のために,起訴した事件は何が何でも有罪にしようとする。それが検察官としての評価に繋がるからだ。そして,裁判所も,検察の面子を潰さないように,出来るだけ有罪にしようとする。検察との関係が悪くなっては具合が良くないからだ。そして,有罪判決を出すことが,裁判官の評価に繋がる。これが,日本の司法行政の構造的欠陥だ。このプロセスの中には,法の下に,公正な捜査,裁判を行うべきという意志や理念が欠落している。すべて自分たちの都合のために動いているのである。検察や警察が絶対の正義だと思ったら大間違いである。彼らは彼らの正義に基いて行動しているのだ。

もはや,この国において,何らかの権限を持っている組織・機関は,すべて,それを私利私欲のために利用しようとしていると考えても,言い過ぎだとは思わない。だからこそ,国民はそれを監視しなければならない。そういう意味で,前田元検事や田代検事を告発した「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」のような活動が重要になってくる。しかし,市民活動であっても,規模が大きくなったり,発言力が強まってくれば,いろいろしがらみも出てくるのだろう。トップページに,「特定秘密保護法案」への反対声明が載っていたのを見て,ちょっとがっかりした。検察の暴走を止める活動とはまったく別のことであり,とても賛同できるものではない。この法案の本来の目的は,検察の内部文書の公開を禁止するものではない。もし,拡大解釈に懸念があるのなら,単なる反対ではなく,法案の具体的な修正案を出すべきである。

そんな訳で,この会に参加するのは見送ったが,今後の動きを見守りたいところだ。こうした市民活動は,ひとつの組織が大きくなるより,たくさんの組織や活動が存在することに意義があると考える。日本人には,自分では行動せず,発言もせず,誰かエライ人が宜しくやってくれるはず,という依存体質が多いような気がするが,そろそろ,そんな「エライ人」はいないことを認識すべきだろう。自分の国は,自分で考えて,自分で行動して,良くして行くしかないのである。


みっしりとした「虐殺器官」 [本]

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)
伊藤計劃著「虐殺器官」

伊藤計劃の「虐殺器官」を読んだ。

電車の中吊り広告だか,本屋で平積みになっていたのだったか,よく覚えていないが,「虐殺器官」という,なんとも不可思議で衝撃的なタイトルが強く印象に残っていた。最近,Koboの期間限定500円クーポンの使い途に困っていた時,ふと思い出して買ってみたものだ。

話題になっていた本のようだが,特になんの予備知識もなく読んでみた。想像していたのとは違って,近未来SFっぽい設定の,戦争もの? というのだろうか。9・11以降の世界。テロ抑止対策として,最先端技術を駆使し,人々の行動を追跡し認証する社会。主人公は,軍の暗殺を専門とする部隊に所属し,日々上層部からの指令により,問題の人物を排除する仕事をしている。まだしばらくは実現しそうもない技術を用いた兵器や装備などが,さりげなく,しかし克明に描かれているのが,理系人間としては,ちょっと興味をそそられる部分。生々しい,スプラッターな描写もあるが,それでいてグロテスクな下品さは感じられない。逆に,妙に文学的というか哲学的というか,小難しい言い回しで,主人公の思考や,他者との会話が綴られ,軸となる物語は淡々と進行していく。軽薄な印象はなく,むしろみっしりとした濃い文章が詰め込まれていて,スイスイ読み進められるようなものではない。かといって,読み進めるのが苦痛という程でもない。なんとも不思議な小説だ。

こういう作品を好きかどうかは,個人の嗜好によるだろう。読み終えてみて,一体著者が何を言いたかったのか,分かったような分からないような。これだけ非日常の設定では,簡単に共感する方が難しいのは確かだろう。ただ,頭の中にある自分の考え方やものの見方を,軽くかき混ぜられるような感覚は残る。それでいいのかも知れない。学術論文ではないのだから,何か正しいことを導こうとしているわけではないはずだ。こんな見方・考え方がある,ということを客観的に観察するということに,こういう作品を読む意味があるのだろう。

ただひとつ難を言えば,結末がしっくりこない。中で敵役が説明していたことと矛盾する部分もある。せっかく主人公の心の中を細密に描写しながら,唐突な結論に飛躍してしまった感じ。まぁ,この結末が書きたいってのがまずあったのかもしれないが。

この作品が名作なのか,私には判断できない。ただ,今まで読んで来たものとは,極めて異質。レビューを見ると厳しい批判もあるようだが,そんなものに惑わされるべきではない。少しでも興味を感じたなら,一度手に取ってみることをお勧めする。


究極のプライバシー [本]

カッコウの卵は誰のもの (光文社文庫)
東野圭吾著「カッコウの卵は誰のもの」

2月に,文庫の新刊で買ってあった,東野圭吾の「カッコウの卵は誰のもの」を読んだ。

遺伝子のパターンにより,スポーツの潜在能力を持つ若者を特定し,トップ・アスリートに育てる研究およびビジネス,というのがモチーフとなっているお話。ヒトの遺伝子の研究が進みつつある今,この類の話は他にもいろいろありますな。USのドラマ,「NUMBERS」の中にも,遺伝子による選択をモチーフにしたエピソードがあったはず。

ここから,若干ネタバレの話もあるので,未読の方はご注意を。

メインのストーリーは,オリンピックの出場経験のある,元スキーヤーの男が,やはりスキーの道で才能を発揮している娘の成長を喜びながらも,その出生の秘密に纏わる事件に巻き込まれて苦悩する...というようなもの。娘の本当の親は誰なのか,という謎は,終盤に意外な展開を見せる。東野作品にしては,それほど複雑に伏線が張られていたりはしないが,読み物としては充分楽しめる内容だった。

タイトルの中の「カッコウ」は,他の鳥の巣に卵を産み,自分の代わりに育てさせる,「托卵」をする鳥である。最初,実子でない娘を育てている父親に擬えているのだとばかり思っていたのだが,作中では,遺伝的に持って生まれた才能を「カッコウの卵」だとしている。しかし,この解釈はどうもしっくりこない。ミステリーなので,二重の意味に解釈できるような,ミスリーディングなタイトルを敢えて選んだのだと思うが,ちょっとこじつけっぽく感じられる。本作のテーマの1つに関わるキーワードと思われるのだが,こじつけのせいで,説得力を損なわれているような気がする。

まぁ,そういったことはともかく,遺伝子パターンによって,潜在的な才能を知ることが出来るというのは,個人的にはなかなか魅力的な話だと思う。勿論,何かの才能があると分かっても,それが自分のやりたいことと一致するとは限らない。しかし,ひとつの選択肢になることは間違いない。趣味や興味などというものは,環境に左右される部分も大きい。幼い頃から親が環境を整えてやれば,才能とやりたいことが一致するように誘導することも可能だろう。作中の娘が,スキーの道を選ぶきっかけとなったのも親の影響だし,世の中には同じような例がゴマンとある。

一方で,ある程度成長してしまってからだと,「嗜好」のような無意識に近い心理を,意図的に変えようとするのはなかなか難しいかもしれない。作中の,遺伝子パターンに基づいてスカウトされた少年のようなケースだ。ただ,いずれにしても,最後に選択するのはその人自身である。選択肢が増えて,悪いことはないような気がする。

但し,現実の運用を考えると,難しい問題がありそうだ。才能を本人だけが知って,自由意志で選択するのならよいが,第三者がフィルターをかけるために使うようなことがあってはまずい。才能のない人には機会を与えない,ということになると,差別にも繋がる。技術は,常に良心的な人間だけが利用する訳ではない。まして,国家権力に利用される可能性を考えると,極めて危険な技術と言わざるを得ない。どんなに法整備をしても情報は漏れるものだし,一旦漏れてしまったら,もうなかったことには出来ない。

また,例え本人だけが知るのだとしても,調べた結果,何の才能もないことが分かって,人生に絶望してしまう場合もあるかも知れない。自分はどんな結果を見ても大丈夫,なんて自信のある人だって,いざ現実を突きつけられると,冷静ではいられないのではないか。

人間の設計図ともいうべき遺伝子情報。言わば,究極のプライバシーである。慎重にして,しすぎることはない。そんなことを考えながら,この本を読み終えた。

それにしても,東野圭吾氏にはスキーを題材にした作品が多いな。


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