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検察崩壊 [本]

検察崩壊 失われた正義
「検察崩壊 失われた正義」郷原信郎著。私が読んだのはKindle版。

「検察崩壊 失われた正義」という本を読んだ。

世間を騒がせた,小沢一郎の陸山会事件に纏わる,検察の恐るべき隠蔽体質を告発する本である。ハッキリ言って,私は,小沢一郎という政治家を信用していない。証拠があるわけではないが,裏で何か悪いことをしているに違いないと思ってさえいる。しかし,それとこれとはまったく別の話だ。この事件で,検察が小沢一郎を起訴しようとしていたことは知っていたが,正直なところ,こんな事になっていたとは全く知らなかった。日頃から,司法や検察・警察批判をしている身として,その無関心を恥じるばかりである。

しかし,なんと恐るべきことが行われていたのだろうか。まず驚いたのは,「供述調書」と「捜査報告書」の違いだ。「供述調書」は,取り調べ対象者の供述を元に書き起こされ,最後に供述者が内容の正しいことを確認して,署名をする。一方で,「捜査報告書」とは,捜査員が上司への報告のために書くものであり,取り調べ対象者による確認も署名も必要としない。つまり,捜査員がどんなに勝手なことを書いても,分からないということだ。取り調べ対象者が実際に口にしていないことだって書ける。しかし,果たして素人で,その違いを理解しているものがいるだろうか。それだけを見せられたら,それが捜査員のまったくの創作であっても,一般市民には,供述者の供述と受け取られる可能性は極めて高い。更に,この一連の事件の中で,最高検は,実際に口に出して言ったことでなくても,供述者の様子や態度から,捜査員が推定できることを,「供述として」補って書いてよいと,報告書中で述べたそうだ。言ってもいないことを,勝手な憶測で,言ったことにしてよい,とお墨付きを与えたのである。こんな理不尽で不公正なことが許されるのだろうか。

そして,検察が「組織を守るために」,詭弁を弄してでも,虚偽報告における担当検察官の故意を認めないこと。この事件では,虚偽とされる捜査報告書と,実際の聴取の録音資料などがネットに流出しており,もはや誰の目にも虚偽が明らかであるのにもかかわらず,「記憶の混同」などという,幼稚な理由で言い逃れを計ったのである。

そもそも,「組織を守る」とはどういうことだろうか。本気で検察の威信を守るのであれば,不正は不正として,厳正に処理するのが最善に決まっている。それをしないということは,つまり,それをされると困る人を守っているに他ならない。いや,責任を取るべき人間の自己防衛行動に過ぎないのだ。下の人間は,指示に従いそういう連中を守るために動く。下手に逆らおうものなら,後で生き残った権力者に報復されるからだ。これもまた,下の人間の自己防衛である。結局,「組織を守る」は建前で,組織の人間それぞれの保身が結集したものなのだ。

更に驚くべきは,本来,検察の正当性を審査すべき検察審査会が,検察の都合の良いように利用されているという事実。検察に関わりの深い審査補助員(弁護士)選任の不透明性と,審査誘導の疑い。今や検察審査会すら信用のおけないシステムになっていたということなのだ。日本のこういう機関はいつもそうだ。裁判員制度でも裁判官による誘導(指導?)があるし,官僚のいうなりの「有識者会議」も同じだ。

こうした状況に対して,マスコミが機能しないのは嘆かわしいことだ。いや,マスコミが無用の長物だということはとっくに分かっているが,それにしても酷い。国民の理解が得られるように,徹底的な捜査をするよう,検察総長に対して指揮権を発動しようとしていた小川元大臣に対する,批判まで展開していたのだから。マスコミは一体何をしたいのか。何のために存在すると思っているのか。

そもそも,これだけインターネットが普及した現在,情報を発信するためだけなら,マスコミなど必要なくなっている。検察や警察を含む官公庁は,マスコミ相手に「だけ」記者会見をして発表するのではなく,HPで情報を国民すべてに公開すればよいのである。何故それを拒むのか。拒む権利があるのか。マスコミに資料は渡せるが,一般人には渡せないなどというのは,国民の税金で運営されている組織として,言語道断の考え方だ。情報をエサに,マスコミをコントロールしようという意図が見え見えだが,そんなことが許されるはずはないし,それではマスコミは機能しない。エサをくれる相手を告発できる訳がない。監視機能を失った,官公庁の思惑通りにしか発言できないマスコミは,無駄以上に,有害と言える。このままでは,いずれマスコミも「崩壊」していくだろう。

この本の中でも書かれているように,日本では,検察が起訴した内の99.7%が有罪になる。信じ難い高率だ。裁判所が検察を信頼している,と書かれているが,それはウソである。勿論言っている本人も分かっているはずだ。検察は,面子のために,起訴した事件は何が何でも有罪にしようとする。それが検察官としての評価に繋がるからだ。そして,裁判所も,検察の面子を潰さないように,出来るだけ有罪にしようとする。検察との関係が悪くなっては具合が良くないからだ。そして,有罪判決を出すことが,裁判官の評価に繋がる。これが,日本の司法行政の構造的欠陥だ。このプロセスの中には,法の下に,公正な捜査,裁判を行うべきという意志や理念が欠落している。すべて自分たちの都合のために動いているのである。検察や警察が絶対の正義だと思ったら大間違いである。彼らは彼らの正義に基いて行動しているのだ。

もはや,この国において,何らかの権限を持っている組織・機関は,すべて,それを私利私欲のために利用しようとしていると考えても,言い過ぎだとは思わない。だからこそ,国民はそれを監視しなければならない。そういう意味で,前田元検事や田代検事を告発した「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」のような活動が重要になってくる。しかし,市民活動であっても,規模が大きくなったり,発言力が強まってくれば,いろいろしがらみも出てくるのだろう。トップページに,「特定秘密保護法案」への反対声明が載っていたのを見て,ちょっとがっかりした。検察の暴走を止める活動とはまったく別のことであり,とても賛同できるものではない。この法案の本来の目的は,検察の内部文書の公開を禁止するものではない。もし,拡大解釈に懸念があるのなら,単なる反対ではなく,法案の具体的な修正案を出すべきである。

そんな訳で,この会に参加するのは見送ったが,今後の動きを見守りたいところだ。こうした市民活動は,ひとつの組織が大きくなるより,たくさんの組織や活動が存在することに意義があると考える。日本人には,自分では行動せず,発言もせず,誰かエライ人が宜しくやってくれるはず,という依存体質が多いような気がするが,そろそろ,そんな「エライ人」はいないことを認識すべきだろう。自分の国は,自分で考えて,自分で行動して,良くして行くしかないのである。


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